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読書の秋、「錦繍」の秋

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「前略  蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした。」

蔵王、ダリア園、ドッコ沼、ゴンドラという4つの濁音で始まる名称が呼応し合い、少し毒々しいくらいに鮮やかな錦織りなす秋の風景を想像させる文章。宮本輝の小説、「錦繍」の冒頭の一節だ。この始まりの部分には「秋」の表現こそ無いが、その言葉の響きとタイトルからくる予感が、「秋」を感じさせる要因になっている。

カレンダー上は確実に晩秋の時期なのに、我が家のリビングから見える山々は、まだ紅葉に至っていない。かつてはこの時期、鮮やかな色合いで秋の到来を感じさせてくれた風景も、ここ数年はそうなる前に冬に突入し、なんとなく茶色っぽく変わって終わり、ということが多かったが、今年もそうなんだろうかと思ってしまう。冬への入りが少しずれ込んでいるだけならいいんだけど...

山がいつまでも秋の装いにならないのと同じく、僕もいまだに秋の喜びを享受できていない。その最たるものが「読書の秋」だ。秋になったら読むぞ~と意気込んでいたのに、ほとんど時間が取れなかった。そんな中で、先日、久々にモーツァルトのシンフォニー41番「ジュピター」を聴いていて、その連想から宮本輝の「錦繍」が読みたくなり、何とか時間を繋ぎ合わせ読み終えた。何度目かの通読だ。

かつて夫婦だった男女が交わした14通の往復書簡で成り立っているこの小説は、そのタイトルのごとく美しい物語だ。何度読んでも心の裏側にズンズンと響いてくる。身体の中の何かが揺さぶられる。恐らく初めて読んだときと今とでは感じ方が変わってきているのだろうが、揺さぶられる振幅が狭まった感じは無い。ただ、それまで靄のかかったような印象だったものが、よりクリアに映るようになった気もするのだが...

絶望の淵に落とされるような事件の果てに、別れを余儀なくされた、かつて夫婦だった二人の物語。その別離からの十年、二人はそれぞれ希望を見出せず諦念の淵を歩いていた。そんな中で、偶然の出会いから手紙のやりとりが始まる。二人は、その往復書簡の中で、自分たちが出会い現在に至るまでの道程のあちこちにあいていた穴を、まるでパズルのピースをはめ込むように埋め合っていく。正直に真剣に。それは相手に対してというよりも、自分自身に向けた検証のようでもある。そして、そのなかで、どういう過去であっても、それが厳然と今日の自分を作っていること、そして過去と未来の間に「今」というものが介在していることに気付いていくのだ。

初めてこの本を読んだのは、30歳を目前にした頃だったと思う。当初は、これほどまでに微細な表現を手紙の中で相手に対してすることに、かなり違和感を覚えた。しかし、現実の会話の中でそれができるものなのかと思うと、もっとありえないような気もする。これは手紙というフォーマットだからこそ実現できているのだし、だからこそありえるのだと思うようにもなった。

その頃はまだインターネットもなく、メールのやり取りをすることも無い時代だ。その点に限って言えば、当時よりも手段が増えた分だけ、文字媒体でのやり取りは増えているが、問題は質だ。僕の場合、メールでは、いかに素早く簡潔に内容を伝達できるかに重きを置いている。それでいいと思うし、そういう点では優れたツールだ。しかし手紙の変わりになりえるのか、と問われると、多少疑問が残る。絶対ならないとは、言い切れないのだが...


この小説には、モーツァルトの後期三大交響曲(39、40、41番)の記述が随所に出てくる。特に39番は、この物語の本質に食い込む大きな役割を担っている。モーツァルトの音楽しか鳴らさない喫茶店で、主人公・亜紀が、そこに流れる交響曲39番を聴き、そのさざなみのように穏やかな音楽の中に、悲しみと喜びの二つの共存を感じとるくだり。そしてそこから「生きていることと死んでいることは、同じことかもしれない」という、生と死の本質に突き進んでいくところは、特に好きな箇所だ。それが、あの美しいト短調の交響曲40番でもなければ、「ジュピター」と呼ばれる壮大なフーガを持つ最後の交響曲41番でもない、ある意味非常に地味な39番であったところが、この挿話の真骨頂とも言うべきところだろう。

「ジュピター」は学生時代に演奏したことがある。近くのK大の卒業目前のメンバーとOBが中心となって結成した一回限りの小さなオーケストラに参加させてもらって演奏した。この技術的にも申し分のないメンバーの中で弾いた経験が、その後の学生生活における貪欲なまでの演奏意欲につながった、思い出深い曲だ。その第4楽章のアンサンブルは想像以上に難しかったが、演奏している最中、前後左右から湧き上がるフーガに、まさしく天体を連想させるものを感じ、そのタイトルに納得した。

40番は、誰もが聴いたことがある有名なフレーズで始まる劇的な作品だ。この曲は、演奏したくて未だ叶っていない曲のひとつだが、以前どこかのオケの演奏会で最前列に座って、冒頭、弦の16分音符のきざみを聴くやいなや、なぜか強烈に「弾きたい」という想いが湧き起こり、ひたすらかぶりつきで演奏者の息吹を感じながら聴いたことを思い出す。

そう考えてみると、39番の想い出はない。何度か演奏会で聴いているはずなのだが、あまり思い浮かばないのだ。初めて「錦繍」を読んだ、まだ若かりし頃、「何で39番なんだろう」と不思議に思ったのだが、今はそうは思わない。そのさざなみのように穏やかな楽曲こそが、やはりふさわしかったのだ、と思うようになった。

「錦繍」には終盤、瑣末とも思える「今」の描写が多く現れ始める。初めて読んだときは、その部分がひどく冗長に思えた。しかし今は、ある意味下世話とすら感じるその部分こそが「今を生きていく」ことへの執着であり、希望であるようにも思える。モーツァルトの交響曲39番のように穏やかに流れる日常の中にこそ、喜びも悲しみもすべてを塗り込めた再生への扉が開いているのだ。

過去の道程を明らかにした二人は、不思議な生命力を得て「今」を力強く生きていくことを決意する。その思いの中で、二人の往復書簡は終わりをむかえる。この心の深いところで繋がりあった二人は、二度と会うことも、手紙をやり取りすることもないのだろう、と思わせる。しかし、その思いの裏には灯りの見え始めた「今」が息づいていて、気分はどこか晴れやかになる。

いままで、どちらかといえば新しいものを読んだり聴いたりすることに注力してきたが、かつて読んだ本の再読は、実はそれ以上に意味があることのように感じてきた。本もCDも溢れかえった部屋で、そろそろ、うんと絞り込んでもいい年なのかな、と自分に問いかける。「いいんじゃないの」とつぶやいてみるが、どこかから、「まだまだ」という心の声が...

さて、もう直ぐ12月。秋を十分に感じる前に師走を迎えるなんて寂しい話だが、今しばらくは秋の気分で許してもらおう。せめて紅葉の秋の名残を十分に感じてからでも遅くはない。2012年はまだ遠い。



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B005BKOY7Oモーツァルト:交響曲第39番、第40番、第41番
オトマール・スウィトナー指揮 シュターツカペレ・ドレスデン
キングレコード 2011-10-05

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4101307024錦繍 (新潮文庫)
宮本 輝
新潮社 1985-05

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